私如き者にまでと恐縮したが。
そのときの連想から中川さんは「栗」についてどう書いて居られるかと例の「木偏百樹」を開いてみた。
「馬の栗毛はたてがみ尻尾共茶褐色の栗色のもので、栗毛の馬は性質温和である。
私は昭和二六、七年ごろ栗毛の牝馬初菊号で全日本に出場して優勝したこともあった。
子供たちが馬のお腹の下をくぐっても後から飛び乗っても何もしないやさしい馬だった。
」という一節があった。
中川さんの乗馬姿は一度も拝見したことはないが、何故かあの玲瓏としたお声と凛々しい乗馬姿がピッタリ似合ったイメージとなり訳もなく感動を覚えた。
想出とは、その人柄の一面を、経験したことのない形で思い浮べることもあるのだろうか。
中川さんとのお交き合いは、殆んど、何かの会議、パーティなどの場であってサシで話し合ったことは一度もない。
(会社とお取引はあるが、幸か不幸か商売の生臭い話しはしたことがない)しかし短い時間の中での会話はいつも充実していた。
私はいつしか中川ファンになっていた。
官、業界の多い肩書とその輝しい業績についても。
昭和六二年三月末、大阪キワニスクラブでの卓話をお願いした。
私が紹介の中で「並みの材木屋の主人ではない」と述べたのは、木材業界にはこんな人が居る、と胸を張りたい気持であったからである。
その通りテーマ「木のいろいろ」よりずっと格調の高い内容であった。
木の年輪年代学から国産材と輸入材の問題、そして木偏百樹に及び、たしかな科学性と独特のユーモア溢れる名スピーチは後々までも会員から好評で嬉しかった。
タッタ一度だけ、そう昭和六三年三月木住協近畿支部設立三周年記念シンポジウムで中川さんの司会、私もパネラーの一人として出席させてもらった。
あとでパネラー全員を別席で慰労していただいた。
中川さんの車で移動したがその時奥様にはじめてご挨拶した。
別席では、あの美しいバリトンでよく通るお話に聞き惚れていた。
心の温い思いやりの深い方だな私の心も和んだ。
木材団地やウッドリームの成功がわかったような気がした。
その夜がお目にかかった最後であった。
訃報を聞いたのは丁度北陸路を旅行中であった。
栗の実がまだ青い秋雨の空へ絶句した。
「何ということだ」。
「其の人己に没すと雖も、千載余情有り(陶潜)」生前のお交き合いは浅いようでも実は心の交い合った深いものであった、しみじみ思われるいまである。
いつまでも余情の残るお方である。
「栗の実の落ちる音にも動く秋(松本益惠)木偏百樹より」。