若者達は皆戦場へ征き、大阪木材業界は年寄りばかりが、一生懸命銃後を守っていました。
そして漸く戦さは終りました。
発剌たる若者達が続々と復員して、帰って参りました。
業界に若々しい風が薫り、活気がよみがえって来ました。
そんな時、昭和二十一年の事でした。
久しく中断されていた大阪木材親尚会の、伝統の野球大会が秋に復活開催される事になりました。
浪速区幸町の紫友会も、秋に備えて、練習に励みました。
その中に、復員軍人中川藤一君と、同じく私紙野省一が居りました。
共に二十七才の若者でした。
物すごい食糧難の時でした。
昼間の激しい仕事を終え、空腹に耐え乍ら暮れなずむ焼跡の広場で懸命に球を追いました。
私はセカンドで、中川君はセンターでした。
私の所へ飛んで来る球は、何故か私の股をくぐりぬけ、殆んどがセンターまで転がりました。
以来私は中川君の世話になりっぱなしでありました。
あれから四十余年、思えば長いつき合いでした。
大青協、日綿建友会、十日会、そして興福会と常に有意義な実のある集いに誘い、導いて呉れました。
彼は誰もが認める、ほんとうに偉い男でした。
文武両道の達人で、商売上手で交際名人、政官学界にも顔広く、歌舞音曲に秀で、男前で健康で、金持で優しく等………実に素晴らしい人でした。
数々の輝かしい功績を残し、彼は忽然と逝きました。
又数々の思い出を私の心に残し彼は去って終いました。
数ある思い出のその中で、何故か茫々として追憶の彼方へ去って終った筈の、あの四十数年も前の野球練習のことども、夕陽を浴びて、ばらばらのトーモロコシパンを共に喰べた。
若き日の二人の姿、嬉しそうだった彼の温顔等が昨日のように思い出されるのであります。
まさしく光陰は矢の如し、私は老い、彼は逝って終いました。
あヽ、中川藤一君心からご冥福を、お祈りいたします。