松原先生の、お話しのあと夕食をはさんでの懇談が、とても楽しみで、月一回の勉強会が、待ち遠い程の会であった、この木材企業経営の勉強会は、まだ木造比率は六〇%もあり、木材業は結構な時代であったけれども、アルミサッシの台頭もあり、木製建具は減ってゆく、住宅は洋風化されてゆくなかでの、木材業の復権を願い、後継者に安心して木材業を継承してもらおうという勉強会なので、公私にわたり多忙な中川先輩も、この会は皆出席されていて、東奔西走のなかからの見聞されたことなど披露して下さったので、教えられることがずいぶん多かった。
中川先輩は常に木材需要拡大の第一線部隊長であった。
木材政治連盟の推進、そして国産材振興のため、間伐材対策協議会や、全国ログハウス振興協会の設立、そして会長就任されての活躍、中でも一番印象に残ることは、大阪木材工場団地協同組合理事長として、林野庁の大規模木造モデル事業計画があることを知ると、その第一号は是非大阪に、と奔走せられ、決定をみるや、少しでも多くの設計士に、大型木造建築を勉強してもらおう、関心を持ってもらおうと、設計コンペを実行されたことである。
このコンペには、応募作品五〇点九十九名の設計士の参加を得ることが出来た。
そればかりか、ウッドリーム大阪が完成すると、全国各地から、毎日のように、見学者が参観されることになったし、毎月開催される木材に関する講習会は盛会のうちに、五年の歳月を経た今日も続けられている。
中川先輩は寸暇をさいて、林野庁は勿論、建設省や、国土庁にも出掛けて、木材需要拡大をと、唱えられるばかりか、毎月といってよい程に、全国各地から、依頼されて、講演行脚をされていたが、これ皆、木材需要拡大の運動ばかりであった、この東奔西走のなか、突然の病に倒れる、中川部隊長の壮烈な戦死である。
業界として痛恨の極である。
あと一〇年、業界の軍司令官として、生きていてほしかった中川先輩であった。