(私の娘時代のことですから、もう三十年近くも前のことですが…)大学も四年制は婚期が遅れる、文学部は弁が立って可愛げがない、お勤めをすると生意気になる、と全てそんな具合でしたから、どちらかといえば飛びたい方の私は、たしなめられたり叱られたりした記憶の方が強く残っています。
私のみるところ、紀州男子というのは、言わなくてもわかるだろう、わかって当然という風で口に出してあたりのよい言葉はいわないのです。
それでも早くに父が戦死して「男の社会」や都会を知らない私を心配したのでしょう、ずいぶんいろんな社会勉強をさせてくれました。
人が大勢集まる時はもちろん、ホテル、空港、キャバレー、飲み屋、出来たての高速道路、役所、警察から拘置所まで(差し入れだったと思いますが)機会のある毎に、つれていってくれたり、用事をいいつけられたりしたものです。
卒業と同時に結婚した私にとっては貴重な体験となりました。
結婚するとき注意されたことは、子供のひきつけのときの処置の仕方と、夜中に玄人の女性が亭主を自宅まで送ってきても、けっして相手に厭な顔をしてはいけない、といった風なことでした。
幸にこれらの教訓は両方共役に立つことはありませんでしたが、要するに良妻賢母型の女性(叔母はもちろんそうですが)が好みだったのでしょう。
私はその意味では落第ですが、その叔父が大学の最初の夏休みに車の運転免許をとることをすすめてくれました。
当時はまだ女性ドライバーの少い頃でしたが、これからの女性は車の運転位は出来ないと、という事でひと夏叔父の家から教習所へ通わせてもらいました。
その後大阪市内を走れるまでに仕込んでもらっておりましたのに、長らく休んでおりました。
最近、主人の母が足を痛めたので、おそるおそる運転を再開していますが、私の年代でいまさら免許をとるのも大変なことと運転をする度に叔父の先見性に感謝している昨今です。
結婚後は、すぐ近くに住みながら忙がしい人でしたから、普段は会う機会も少なく、ゆっくり会えるのは祖父母の法事の時ぐらいでした。
亡くなる三ヶ月前の祖母の法事では次の機会には郷里で行いたいと話されていましたのに、まさかそんなに早く逝くとは回りの人々はもちろんのこと、自身にとっても青天の霹靂であったろうと思います。
着物の好きな人でありましたからこんどこそは着物をきて出掛けようと思いながら、又次の機会にと思ったのが二度とその機会は巡ってきませんでした。