本稿では、生前の思い出をお話して、故人を偲びたいと思います。
お亡くなりになる五十二日前、六十三年七月十四日、日本木材同友会例会が東京新木場で行れ、一五号地の視察も終り、帰る際地下鉄の同じ車輛で有楽町駅迄御一緒したしました。
その際、中川さんが三月五日日本経済新聞の交遊渉欄に御執筆になった記事のことが、私の手帖に要点を記入しておりましたので、それを御覧いただきながら、話を伺いました。
その時の中川さんは、大変ごきげんで語られ、そのお顔が今でも目にやきついております。
その記事で中川さんは、巾広い御活躍のなかで、岡崎の鈴木政夫氏の石の道祖神の出会いから、穂苅、鴻池、竹林、弘世四氏のことにふれられました。
実業界だけではなく、中川さんの深い芸術的御理解や精神性は、各界の人々に及び、とかく交際のせまい木材界人にはめずらしい大きなスケールの方であったことが偲ばれます。
その時、秋にはロッグハウス協会のことで山梨に講演旅行に来られるとのことでしたので、是非私の会社の記念館の書院に御宿泊下さることを申しますと、喜んで御夫妻での御宿泊をお約束されました。
御夫妻は既に、五十八年九月日本木青連関東大会(山梨県担当)の際、私のところにお泊りになっており、その際、新幹線富士駅までお出迎えとお見送りをしたので、車中計六時間を色々な、木材界のこと、人生論、芸術論など、奥様も文学のことを交えながらお話しすることができました。
御夫妻の仲のよいことは、同友会でも有名で、旅行の時などいつも御一緒で楽しい旅行をなさっていることに称賛をうけておられました。
懇談会の席では、今の林野庁長官で、当時は、山梨県林務部長の松田尭氏とご一緒で、お酒もかなり召し上がった思い出もございます。
私にとって中川さんとは、大阪と山梨の距離ですのでお目にかかる機会は必ずしも多くはありませんでした。
しかし、業界のことのみならず、人生のあり方、芸術に、いつも目が開かれる師のような存在でございました。
今の私は「羅針盤を失った舟のような心境」でおります。
業界の方々も、中川さんの生前に示された、を今一度思い出して、今後の業界の発展の方途に向って実践されるべきと思っております。
心より中川さんの御冥福をお祈りいたします。