中川さんは、「ウッドリーム大阪」を創設して多くの人々が、木材と木と森林に対する楽しみや親しみを享受することに努力しました。
彼の先見性の象徴である「ウッドリーム大阪」は、一人の人間だけでは成し遂げ得ない高邁な目的の達成には、多くの人々の友情と協力が必要であるとの前提のもとに、完成されたものでした。
「ウッドリーム大阪」は、大阪木材工場団地協同組合の賞嘆すべき計画のもとに出現した訳ですが、その努力のリーダーであった中川さんがあったればこそ、その出現も可能となりました。
中川さんは、かつて米国・オレゴン州・ポートランドを訪れられ当時、「米国西部森林センター」と呼ばれていた私共の施設を訪問されました。
彼は、我々の森林センター構想の興味を抱かれ、「ウッドリーム大阪」の実現に向けて私共ポートランドの施設をモデルの一つとされました。
中川さんは我々の森林センターが森林に関する教育や技術の情報提供の媒体として、有力なパートナーとなることを常に覚えておられました。
昭和60年、彼は「世界森林センター」という名称となった私共の施設に対し「ウッドリーム大阪」と姉妹関係を確立したい旨の提案をされ私共もその提案を誠心誠意了承いたしました。
この姉妹関係は、昭和61年に更に強化されました。
中川さんが、「世界森林センター」会長である私と妻を大阪へ招待下さり私達はめったに起こり得ない名誉に俗しました。
それは昭和天皇陛下を迎えた、植樹祭に出席できたことです。
私達にとって、その時の大阪訪問は、生涯の中で最も貴重な宝として記憶されるべき体験となりました。
優美な雰囲気の中川夫妻宅訪問。
厳粛の内にも美しくとりおこなわれた天皇陛下と招待者一二、〇〇〇人による植樹祭、又「ウッドリーム大阪」を訪ねて更に多くの友人が出来たこと等、私達にとってすべてがはっきりと、貴重な想い出として残っております。
これらのことは、すべて中川さんのお陰です。
昭和62年中川さんをリーダーとする、大阪木材工場団地協同組合の一行が、米国西海岸を訪れられました。
「世界森林センター」は夕食とレセプションの会場となる光栄に浴し、日米双方の友情は更に深まりました。
大阪からもたらされた心づくしの贈物は、常に忘れることが出来ません。
中川さんの友情深めようとする活力と熱意は、喜びあふれる夜となって世界森林センター関係者一同永遠に忘れえぬ思い出となりました。
昭和63年中川藤一氏の死は森林教育におけるパートナーを失っただけではありません。
一人の偉大な友人を失ったのです。
私達の友情は言葉、世代、文化そして地理的障害を超越しておりました。
私は中川さんをこよなく尊敬しております。
何故ならば彼が大きな仕事をなしとげようとする時、彼は多くの人々の援助が必要であることを知っており、その人々に対し愛情と理解を有していたからです。
彼の目の輝きと、顔にあらわれる笑みは、人々の心をとらえ彼の計画や夢の実現に容易に引き込まれてしまいます。
中川さんの死が、私共の友好関係やパートナーシップが完全に花開く以前に起こってしまったことに大きな悲しみを覚えます。
中川さんの葬儀に出席出来なかったことを悔んでおります。
やむを得ない事情があったとはいえ、中川藤一氏に正式にお別れを言うことが出来なかったことは、私の今後にいつまでもしこりとなって残ることでしょう……(日本語訳文)米国西部木材製品協会日本総代表山口郁雄