高知県にグループ・マルボという名の集団が誕生した。
当面の急務となった間伐小径木の利用を研究開発するための異業種六社の集まりで、名前は、原木を丸い棒に加工するがためにつけられたものであった。
規格を定め、インテリア、エクステリア向けの商品を揃え、県内外に販路を求めようとした時、消費地の相談相手として直感的に中川さんが思い浮んだ。
大阪木材青年経営者協議会のメンバーとして来高された時の黒田節を踊る若武者振り、社員旅行で私の製材工場に来られたこと、私の中学時代の水泳部主将と三重高農で同級であった事などが想い出されて、思い切って相談すると、専門社員を岸和田支店に配置すると応えて戴いた。
商品開発は月を追って急速に進んだことであった。
昭和五十五年四月、大阪国際見本市に、中川木材店、グループ・マルボ双方の研究成果を展示して一般消費者に見てもらった。
効果は多大であり、新しい発見があり、消費者直接のアドバイスも受けた。
そして中川さんは「消費者にとって国産材は新製品である」との基本的認識を持たれるようになった。
その時読まれた川柳に「木材展さすってなぜる人多し」「木材展香りが良いと子らがいい」「木材展横目で通る材木屋」というのがある。
五十七年の見本市へも再度出展となっていった。
昭和五十六年四月。
林野庁に間伐対策室が設置されるや、それに呼応して、全国間伐小径木需要開発協議会を組織されて、自らその代表となられて定期的な会合を持つようになった。
そして年一回、東京でシンポジウムを開き、メンバーの研究成果を全国に紹介する運動を展開された。
これには全国各県からの参加があり、毎年のように改良される商品、施工例の増加など、運動の成果は目をみはるものがあった。
そして中川さんは全国を飛び廻られることとなった。
昭和六十二年二月。
木材流通の本を出版しようと思うので名古屋の安藤友一氏と共に参加せよとのお誘いをうけた。
柄にもないことと思いながらも、戦後旧満洲から引き揚げ、未知の木材界に入り四十年間お世話になった業界へお礼の意味を込めて厚顔にも参加さして戴いた。
そしてその年の秋高知で、出版記念のシンポジウムが開かれ、安藤氏と共に来高されたのが昨日のことのように思い出される。
中川さんから受けた御厚意に報いるのには何をしたらよいのかと考える今日此頃である。
(平成元年三月三日)