病院でのこと、ご自宅での前夜祈祷会・出棺式、又、少壮の頃洗礼を受けられた日本基督教会大阪西教会での葬儀のことなどが、昨日のごとく思い起こされます。
あらためて、多くの人々に愛され信頼された故人の生と、惜しまれた死とを考えますときに、その人となりや生き方に滲み出ていた故人の信仰のこと、祈りのことを想起させられます。
故人が座右の銘としておられた言葉に、次のような聖書の一節があったと伺います。
「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」。
聖書は、このようにいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝をする生活というものは、「怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容であり」、また、「誰も悪をもって悪に報いないように心がけ、お互いに、またみんなに対して、いつも善を追い求める」、そのような生き方を展開させるものであることをも教えています。
前夜祈祷会の折、これらの聖書の言葉に従って幾許かのことを話しましたが、故人のご子息方をはじめ幾人もの方々から、中川藤一さんはまさしくそのような人であられたと、後に聞きました。
家庭や職場や種々な人間関係の中での故人のことであります。
信仰に生きるとはこのようなことであろうかと思ったことであります。
しかしながら、そのことをもって、故人は真に理想的なキリスト者として生きられたのであると言いますならば、故人にとっても不本意な言葉となることでしょう。
聖書は、人がそのような理想的な人間になることを求めているものではないからです。
むしろ聖書の光に照されるとき、すべての人に欠点があり破れがあることが明らかにされます。
それ故にこそ、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することが勧められます。
喜び感謝するその生活の中心には、祈りがあるわけであります。
今年に入って輝子夫人から、故人の遺稿となった随筆が掲載された『日高野』第一五号を見せていただきました。
そこには日頃自らを反省するよすがとしておられた言葉が三十一日分紹介されています。
その一つ、故人が御母堂から受けられた「神の御旨にそう人であれ」が、記念会の折ご自宅の一隅に掲げられていました。
神の御旨に従うには、祈りなくしてあり得ないことであります。
キリストによる神への信頼と祈りの中からの故人の生涯を、今更のごとく思念致します。