当時は満州事変も一応治まりましたが、これが経験から次第に経済、軍事、政治の改革が始まって居りました。
昭和八年五月には、昭和二年制定の兵役法が大々的に改正され、各学校に於ける軍事教練も強化されつつあった時代であります。
桜花満開の上浜町の三翠寮に中川さんは十一号室に前重慶範氏(現在松前木材店会長)と入室され私は二十九号室に入りまして、爾来青春を謳歌しながら楽しい学生生活を送りました。
時の総理大臣は林銑十郎で、同年7月には蘆溝橋事件がおき、日中戦争に突入する時代でありました。
当時たまたま中川さんの尊父計三郎さんが私の郷里奈良県吉野郡高見村平野(現在東吉野村)において約一〇万石の杉桧の立木を買付けられまして、伐採搬出されました。
たまたま私の実父が村長をして居りました関係から、支配人の柳瀬氏が来宅されまして、種々相談を受けて居りました。
此の山林は九〇年から一二〇年生の杉桧の山林で大変見事なものでした。
現在跡地は造林され杉・桧の林となって居りますが、林地には当時の切株が残って居ります。
数年前中川さんと一度暇が出来たら、子供達をつれて見学に行きましょうと話し合って居りましたのに、それも実現出来ず誠に残念で心残りで御座います。
尚此の山の場所は吉野の中でも台高山脈(大台ヶ原と高見山を結ぶ山脈)の北端の裾野で御座いますので日本では有数の多雨地でありますので、伐採が終了して戦後造林が完了する迄十数年間平野川が氾濫して、水田、や畑地に被害を与えまして地元の人々は「菅原の山」を切ったから大水が出る・・・・という話を耳にしましたが現在はすっかり成木しましたので全く被害はありません。
昭和十五年三月学校卒業後中川さんは大学に私は就職と別々になりましたが、戦後の第一回の同窓会を開いてくれたのも中川さんでした。
恩師川田繁二郎先生を囲んで布施の菱屋西のお姉さんのお宅で大変お世話になったことが昨日の様に思い出されます。
それから数年おきに全国各地で開催される様になったのも中川さんの取計いと一同心から感謝いたして居ります。
北海道羊ヶ丘でのビールの乾杯、会津城の酒宴、演習林の石楠の花の下でのカンビール、昨年は湖東三山、金沢での会合、本年は高知でとの皆さんの希望でお互いに楽しみにして居りましたのに、もう貴兄の姿が見られないと思うと、残念で断腸の思いがいたします。
どうか中川さん安らかにお眠り下さい。
そして御遺族や業界、同窓生を健やかに、明るく御導きいただきます様お願いいたします。