弟は大東亜戦争で戦死しましたので峯子さんら三人は御坊の祖父母の所へ疎開いたしました。
祖父故計三郎氏は健康すぐれず長いこと病床にあり、祖母との二人暮しでありましたために非常によろこばれ、いつの間にか御坊に住みついていました。
さて藤一さんは祖父の業たる中川木材店の若き社長として奮斗されていましたが御坊の御両親に対し本当に親孝行な息子さんでした。
氏は三重県の高等農林をご卒業、当時から馬術が大好きでした。
夏休みには御坊で馬を乗り廻していました。
諸芸に通じ商売熱心で元気溌剌で諸芸に通じ、人との交遊を大切にし、遂に関西材木界で責任ある人に成長されました。
豊中のお宅は一寸風変りな茶人風の好みでありました。
終戦の後、私は泉尾にあった工場を焼かれ去就に困っていました時に藤一君が来られ工場の焼土に放ってありました石臼十台を所望され喜んでもち帰り願いました。
後日豊中へ参りました時、庭の置石がわりに使って埋められているのでありました。
風変わりで一寸面白いと思いました。
氏はまた美術を愛され、版画の徳力先生や和歌山の石彫の先生らを御紹介下さいまして、私方にも芸術的センスを流して下さいました。
藤一さんは人付合のよい人で人の世話をよくなさいました。
長ずるに及び業界のリーダーとして業界につくされ幅広いリーダー的活躍をされていました。
御子息三名も立派に成長され、健介君の指導や昭子さんの結婚の事枚挙の暇もありません。
かかる人物が突然死んでしまわれると色々の点で寂しさを覚えます。
何だか故人を慕う気持のあまり、所謂、身贔屓の過ぎました事を反省いたします。
乱文お許し下さい。
藤一君存命中は、皆様の一方ならぬ御支援により本人の人生開業に御協力下さいましたことを深謝申上げます。
合掌中川藤一君に昔のうたを宗夫紀の国の日高川なろうまし鮎骨も頭もなべて食したり水清き日高川なろみなかみの若鮎うれし夕餉にのぼるたらちねの父母のみそばに夏はいて乗馬にはげむ君を羨しむ