殊に奥様のお嘆きさこそと思いお気の毒に堪えません。
死因奥様からの通報によれば、八月二十五日夜、会社で会議中に倒れ、すぐ救急病院に運ばれて検査の中にも意識は確かでございました。
翌日近大附属病院で、十二時にわたる大動脈瘤の手術も成功いたしましたが、内蔵の機能の回復がわるく、十日後の九月五日死去いたしました。
実はこの度佐賀県の依頼により、講演を頼まれ私のところに県庁の車で来ると、平素手紙を書くことないのに自筆で書いて送って来たので、楽しみにしておりましたが会うことが出来ないのが残念でございます。
程なくして青苑会の鎌倉におる坂本祐一君からの知らせを受けて知った次第でした。
まことに惜しいことを致しました。
その驚き極度に察しました。
厚遇戦後初めて藤一君に出会いましたのは、十年前高野山で催された青苑会のときでありました。
高野山に着いた翌日、一同奥の院まで見学致しました。
帰には自車で藤一君のお宅に一泊させて頂きました。
箕面の時も一泊させて頂き厚遇を受けました。
私が部下のお宅に泊めて頂いたののは藤一君と倉敷の中島君の二人だけでありました。
その後年毎に和歌山のみかんを頂き尚梅干、餅菓子、手下げ袋を頂戴し、その厚誼に感謝しております。
一昨年か御一家御一同の写真を頂きました。
今後私は仏壇に飾り「毎日遺徳を偲びたいと思います」交友関西大学時代、竹田宮恒徳王殿下のある様と馬術で交際したと申されていました。
大阪信太山の野砲号第四連隊の有志と青苑会を作りいつも指導的でございました。
友人も君をしたっておりました。
私との関係私は少将の頃北支の保定幹部候補生隊長を進めておりましたが藤一君は砲号隊で、卒業のときは優秀の成績でありました。
まだ書き度いこともありますが之で終らせて頂きます。
此際特に奥様の健康、幸福をお祈りし、あまりくよくよなさらないように