その言葉のとおり、人にも厳しい分、ご自身に対してもその何倍も厳しい方でした。
昭和56年5月、大阪木材工場団地協同組合の四代目理事長に就任され、その時これからの組合の方針やご自分の考え方について、まだまだ青二才の私等にずいぶん話をして下さいました。
「これから忙しくなるよ、もっともっと動いてもらわんといかん。
やってもらわんといかん」色々話される言葉の中に、なんとも言えない活動的な又創造的な考え方に、ずいぶん共鳴し、感動した事が思い出されます。
それから、組合創立20周年の色々な事業、ウッドリーム大阪の建設、創立25周年事業、組合施設の充実、その他一連の組合活性化の諸事業が、本当に機関車のような力強い原動力と、すばらしいかじ取りにより押し進められてきました。
昭和62年の秋、組合職員旅行の折でした。
(理事長はずうっと私達といっしょに行かれ、欠かした事はありませんでした)移動のバスの車中、昭和37年の組合創立当時から今にいたるまでの色々な出来事を延々2時間程話された事がありました。
「理事長、今のお話はテープに録音して組合の歴史記録にしないといけませんネ」と私が言うと「うん、そうや、もしワシがおらんようになったら誰も知らなくなってしまうなあ」と言われました。
ふとさびしさといっしょに誰よりも木材団地の事を考え、愛してこられたのだと感じました。
自ら作詞をされた組合創立25周年記念歌「あたらしき大地」にはその想いが、いっぱいあふれているように思います。
木材団地を愛する事は一番でした。
木にこだわる事も一番でした。
花鳥風月を愛でる事も一番でした。
人に対する思いやり、やさしさも一番でした。
涙もろいのも一番でした。
大きな声も一番でした。
歩く時も先頭一番でした。
でもご自分の人生にけじめをつけるには、まだまだ早い一番だったと思い残念です。
中川理事長、安らかに眠って下さい。
れんげ咲き、夏の樹しげり、虫の音聞え、白雪つもる木材団地は永遠です。
あなたが残して下さったものはたくさんあります。
皆でそれらを愛し、大切にしていく事が私達の務めだと思います。
天国からずうっと見守って下さい・・・・