木材流通に関する著作を表わし、大学の講師を務め、近年は各地の講演会へ出かけられることが多かった。
一方、木材需要拡大運動の実践家として、ウッドクラフトにいち早く取組んでいた(作家の育成も含め)ほか、木材利用普及施設の第一号として「ウッドリーム大阪」を美原の木材工場団地内にスタートさせるなど、そのエネルギッシュな行動力には脱帽することが多かった。
今、思い起こせば、朝一番の飛行機で大阪から東京へこられ、私が出勤する時間には、林産課に座って課員と熱心に話しこんでおられた姿が目に浮かぶようである。
常に話題は尽きず、その話題もタイムリーなものばかりで、時代を読む力は大変なものであった。
例えば、木造3階建の簡易設計基準が関東間だけで、関西間のないことに気付かれ、関西間の設計基準の制定に自ら建設省に足を運ばれ尽力される傍ら、すぐに団地内にモデル住宅を建てられた。
また、学習指導要領にも詳しく、木材加工を中学校技術家庭の必須にしようと東京へ来た折には、足繁く文部省にも通っておられた。
その甲斐もあってか、今回の改訂で必須となったわけであるが、中川藤一氏は、その頃から近隣の学校の先生達へ実習教育を実践しており、先の先を読んだ行動力には、今さらながら感嘆しているところである。
その他にも、「国際花と緑の博覧会」への材料提供に熱心だったのをはじめ、全国ログハウス振興協会の会長、全国木材利用普及施設連絡協議会の代表世話人、全国木造住宅産業協会の近畿支部長として活躍されておられた。
また、間伐材利用の問題にも造詣が深く、全国的な間伐材シンポジュームの開催等に奔走されておられた。
数限りなく、中川藤一氏への思い出は多いが、仕事以外でも一杯飲まれた折には、声楽家ばりの声で、自作の歌詩でマイウェイを歌われ、「私には木材があるから」という一節は、今も耳に残っているところである。
我々が、身を置いている木材業界は、今後も激しい時代の潮流に乗るとき、抗するときと激動の時代が続くであろうと思われるが、中川藤一氏の遺志を継ぎ、時代を先取りし実践を伴う理論に基づいた施策を展開していきたいと私も考えている。
この決意をもって、中川藤一氏への哀悼の言葉とする。