やがて翌朝、日本生命の秘書からの電話で起ってはならない事が事実となってしまった。
奥様や御子息はどうして居られるだろうかと御遺族の事が頭を走った。
中川さんと云えばニュータウン。
ニュータウンと云えば中川さん、私と中川さんとの出合いは丁度私が阪急日生ニュータウンの構想をまとめ様としていた時だっただけに、今も鮮明に当時のことを覚えている。
石彫の鈴木先生を知ったのもその頃だった。
私は比叡山へ行ったりして新しく造る阪急日生ニュータウンの構想をまとめるのに焦っていた。
ニュータウンに就いての私の考えや構想を事細かく彼に話した。
そして鈴木先生にもニュータウンの事を話した。
中川さん程自然を愛した人は少ないだろう。
自然の中に生きつづけた彼に私は彼の幸せを見出す事が出来る。
生前には何度も豊中の茨の中の御自宅にお邪魔した事がある。
そんな中で見れば見る程この人は自然が大好きなのだなあと思った。
又私が何度となく岡崎の伊賀の鈴木先生宅をお尋ねしたが、その時も必ず彼が一緒に来てくれた。
先生がニュータウンの車止めの彫刻を担当する事になったので、仕事が進まず心配で何度となく先生の仕事が順調に行く様にとの思いからだったが、彼にはそんな事を話したこともないのにちゃんと心得ていた様だ。
先生の彫刻をニュータウンの車止めに選んだのは、ニュータウンの自然と最も良く調和しているからだった。
沢山人の集る場所には広場と云わず学校、道路、マーケットの脇に至る迄鈴木先生の石の彫刻が自然を謳歌していた。
阪急日生ニュータウンは人口三万の都市を新しく造るのだから、家の戸数も五千戸は必要となる。
その為には木材の流通事情を勉強せねばならなくなり、当時三重大学で木材の流通を教えて居られた中川さんに教えを請う事にした。
丁度木材の流通に就いての本を書いて居られる最中で、間もなく出来上るからとの事で本を書くと言っても学生達に講義したノートを整理するだけだから直ぐですとの事でそれを待つことにした。
そして本が出来上って最初に頂いたのが僕であった。
早速読んだ新しい本には次男さんの美原の新築の家も写真に出たりしていたけれど、私は木材の流通についての知識を得ようと、彼の書いた木材の流通について彼の言おうとしたことをつかみとれる迄遮二無二何回となく繰り返し読んだ。
どうか中川さんお静かにねむって下さい、そして阪急日生ニュータウンはあなたが想像していらっしゃったよりもっともっと自然を生かした立派な都市にします。