皆さん良いことをしてくれているのに感激、早速私も仲間に入れていただきます」大阪で木材流通の仕事に生涯をかけ、文字通り席あたたまる暇のなかった中川さんが、こういうひょっとした機縁から、そのあたたかいまなざしを故郷の文化活動にも向けて下さることとなった。
「御挨拶の代りに」と新刊の"木偏百樹"も"日高野"の全会員に届けられた。
去年七月十日には会員の作品合評の茶話会に大阪や神戸の人々と一緒に遙々駆けつけてくれて「ペンを持つ人々が、こんなに厳しく自分を磨き、遠慮なく批評し合える雰囲気はすばらしい。
これから何を措いても続けて出席する」と喜んで下さった。
私共は、まさに百万の味方を得た気分で胸がふくらんだ。
その九月はじめに中川さんの訃報に接したのだから郷土の驚きと落胆は言うも愚かである。
中川さんは郷里の旧制日高中学を昭和十二年に卒業、つまり満州事変から日華事変と続く非常時に中学生活を送った。
私の三年後輩で、中川さんが今の三重大学の林学科に進むまで私は休暇の度にお家へ伺って一緒に勉強した思い出がある。
戦後、大阪で事業を始められてからは、紀州に住む私とは遠くなったが、たまたま駅などで出会うと、中川さんはあの人懐っこい顔一杯に笑みをたたえて、時には「おっ」と大声をあげて私に両手をさし出してくれる。
純真そのもののお気持ちは何十年経っても変らなかった。
とうとう遺稿となってしまったが、"日高野"十五号に中川さんは、「私は心に残る恩師や家族の言葉を書き留めて、それを生涯の格言として日替りカレンダーを作り、毎日改めてその言葉を噛みしめている」と書いている。
その二十一日のところに「愛と恕」………輝子とさりげなく書き、翌二十二日の分には「人生意気に感ずべし」………藤一と並べ記している。
輝子とは言うまでもなく内助の賢夫人のこと、そして御本人の一番好きな言葉は「人生意気に感ず」………このお二人の名コンビを、天はどうしてもっと永く組ませて下さらなかったのか、まことに残念の極みである。