其の後馬術の試合では昭和十七年の夏迄慶関定期戦、全日本学生選手権大会、東京大阪京都の三都市対抗試合の他各地で行われた馬術大会で幾度かお手合せをしましたが、年に数回の機会しかなかったのに直ぐ親しくなりました。
彼は私より一年先輩で昭和十七年九月卒業直ぐ軍隊に行かれましたが、馬術は勿論近代五種競技にも挑戦し優秀な成績を挙げる等スポーツ万能の選手であり又学生時代から酒豪で馬術同様好敵手でありました。
昭和十七年の定期戦は馬術のメッカ騎兵学校で高度な障碍飛越競技を行い、彼は関西大学の主将として奮戦、結果は地の利もあって慶應の勝利となりましたが、夜の懇親会では「馬では負けたが酒では負けぬ」と十二分に実力を発揮され底抜けの大狂宴となり一層親交を深めました。
終戦の翌春、白浜で新婚旅行中の彼にパッタリ出会った事、輝子夫人の令兄が私の軍隊時代の上官であった事など奇遇奇縁もあり、又新婚間もないご家庭に深夜馬仲間の悪童連と酔っぱらって押しかけ輝子夫人に大変ご迷惑をおかけして彼をハラハラさせたのも若き日の思い出であります。
彼は戦後も馬を愛し馬を楽しみ忙しい事業の傍らOBとして後輩の指導は勿論乗馬クラブの役員として運営に尽力し、更に大阪府馬術連盟の理事長となり馬術界の発展に貢献され昭和五十八年に日本馬術連盟竹田会長から功労者として表彰を受けられました。
十年程前、私と同期の同志社、明治、早稲田、慶應のOBで在阪の馬友達がなんとなく集って酒を飲み昔話を楽しむ会が出来ました。
会名は頗る単純な発想で卒業が十八年故「十」と「八」を合せて「木」且馬仲間の集りで「木馬会」。
発足して間もなく誰云うとなく中川兄は一年先輩だが「馬」では古いお附合だし「木」とはお商売柄私達以上にご縁が深いのだからと仲間入りをお誘いし、快諾を得ました。
当初は酒を飲み昔話をするだけの集りが次第に夫人同伴の会食や馬術競技の参観等楽しく有意義な会に発展し、中川邸でも家族同伴の懇親会を開いていただき、其の後も紀の川畔迄遠出し鮎料理を賞味する等かずかずの思い出が木馬会のアルバムに残っています。
中川兄には近年特にお忙しい日々でご一緒する機会が無い儘、突然の訃報に接し、幽明相隔てる事となり哀情痛恨の極であります。
故人を偲び筆を執る傍には故人がご生前こよなく愛された「木」シナの木の時計が静かに時を刻んでいます。
謹しんでご冥福をお祈りして居ります。
合掌平成元年二月二十五日記