当時、木材の検量を尺貫法からメートル法に変えることになり、結成なお日の浅い全国林材青壮年団体連合会(現、木青連)は昭和三十三年八月の和歌山大会で規格改正特別委員会を発足させ、この問題に対応することになった。
これを受けて東京では都青連に、大阪では大青協にそれぞれメートル法検討委員会がつくられ、それぞれ別々に検討を始めた。
しかし、時々それぞれの案をすり合わせする必要があり、大阪あるいは東京で度々会合をもつことになった。
大阪の委員は中川さんを中心に数名、東京は酒井利勝さんや私等数名で、深夜に及ぶまで議論を闘わせることも屡々であった。
特に丸太の検量において従来五分(約一・六五糎)刻みであったものを二糎刻みにするのか一糎刻みにするのかでは意見が食い違い、その調整は難航をきわめた。
東京は末口径二〇糎未満は一糎刻み、末口径二〇糎以上は二糎刻みを主張したのに対し、大阪は全て二糎刻みを主張したのである。
大阪の言い分は従来の五分刻みは二糎に近いし、国産人工林の大部分は正角製材用の末口径二〇糎未満の丸太である。
二糎刻みであれば一本一本物差しを当てなくても玄人の材木屋であれば見ただけで区分けができ取引の効率化が期待できるということであった。
一方、東京は末口径二〇糎未満の杉、桧人工林丸太を二糎刻みにした場合、例えば末口径一〇糎と一二糎とでは四〇%以上もの材積差がでるので、特に民有林では売主は上へ、買手は下へ検量しようとしてトラブルが発生しやすい。
また、造材、搬出、運送等の材積も検量の匙加減に左右され円滑な取引を阻害すると主張したのである。
結局、この問題は双方の委員長である中川さんと私との話し合いに一任され、ある日中川さんがニコニコしながら、末口径一四糎未満は一糎刻み、一四糎以上は二糎刻みの妥協案を私に提示されて解決をみたわけである。
そして、この原案が林青連案とされて林野庁へ答申され、林野庁での検討をへて農林省の規格改訂専門委員会へ提出されて現行農林規格素材の単位寸法として採用された次第である。
中川さんは私にとって真の意味で畏友であった。
規格改訂論争中はまことに手強い論敵、しかし機をみて妥協点を見付けてまとめあげるお手並みの見事さ、そしてそれ以来三十有余年、心からの友としてお付き合い戴いた中川さん、その早世は惜しみても余りあり今は只々ご冥福を祈るばかりである。
(平成元・二・二五記)