我が国は、屋外の木材使用は長持ちせぬ印象から、使用は極力避けられて来ましたが、次の世代の、ソフト感覚にアピールする、暖さを知って貰う為、進んで採用にふみ切られ、パイオニアとしての、先見性に感じ入りました。
其の後、私は、池袋サンシャインビル緑地公園始め、各方面で積極的に、木材の空間利用を行い、中川氏に報告し、市民が必らずや欲する雰囲気を目指しての利用を、考えたものです。
終始にこやかに、活力溢れる温顔に惜別の瞬間、誠に寂しい感情に浸りましたが、私達のライフワークに、積極的に木材をとり入れ、日本の美の一要素として、遺訓に沿いたいと思って居ります。
芳邦故中川季様のご長男の藤一氏が大阪で開業され、御結婚なされ、戦後の国際流通時代にさきがけ、アメリカへ行かれ、彼の地でクリスチャンホームの、真摯な姿に打たれ、帰国後洗礼を受けられたとか、御坊教会を通じて伺いました。
それ迄も母上の、クリスチャンライフを目にして、立派な素地はお持ちであったと思いますが、大阪で、御夫妻揃って、信仰に励まれ、会社での中川様のお働きの中にも、又数々の執筆の中にも、聖書が生きて働かれ、力強い事で御座いました。
御坊市を引揚げられ、御自宅が豊中私宅の池田と近い距離で、中川様のお宅での集会に寄せて頂き、当時臥して居られました御母堂様を囲んで、母教会の皆様と再会を果し、社長様の母上に対する細やかなご配慮の、アチコチを拝見し、御母堂様も藤一氏の、行届いた豊中での新生活に、手放しで感謝されて居られたお姿と、奥様のフンワリとした、明るい雰囲気の漂う御家庭に、当時若かった私が、感銘を受けましたのは、もう二十数年前になりました。
それでも、私はまだその家の主じの、孝行な社長には、お目もじしていませんでした。
これ以後は、私の主人と、中川社長との接触が、社長の甥御さんの橋本建介氏を通じて、私の知らぬ所で始り、岸和田本社庭園造成から、クローズアップされて参りました。
その後、私共の事務所へも御訪問下さり、お仕事関係の木製品の紹介や、隠れた芸術家のタラント発掘に、労を厭わず「己の隣人を愛せよ。
」の言葉通り、地で行く努力の人であられ、義を全うされた人として、今も私共の、胸に生きて居られます。
お仕事に追われ、最善を尽して、社長様は、平安の内に召されたと、奥様より伺いました時は、さもありなんの一言に尽きました。
このぶどうの木の生い繁って、豊な房に、新酒が満ちあふれ、中川様の御家族、御事業に溢れ出ます事をお祈りして止みません。
睦子