しかし、話をしてみると明朗かっ達で親しみのある人柄は何時の間にか同僚の様な付き合いをさせて戴いてきました。
昭和四五年頃だったと思いますが、林野庁林産課の木材流通問題研究会で大学の先生方と一緒になって毎月の様に東京に集まり論議を交わしたことが、後に「木材流通とは」の著書に継ながったと思います。
林青連は四五才が定年で卒業生で親睦と情報交換の場を作ろうと言うことになり、現在の日本木材同友会が結成され、ここでまたご一緒することに成りました。
毎月の例会の他に年1度は各地へ見学旅行に出向き、夜には会食しながら酒を汲み交し夜耽るのも忘れよく語り合いました。
林野庁に間伐対策室が設置され、間伐材の利用推進を図るには意識の高揚が必要であると言うことから中川さんの呼び掛けにより全国各地の理解のある代表者を募り、昭和四八年に全国間伐小径木需要開発協議会を結成し、会長を中川さんに引き受けて頂き、以後、六二年まで毎年東京においてシンポジウムを開催し全国各地から多数の方々の参加を得て初期の目的が達成されたのも中川さんのリーダーシップによる賜物と思います。
或る時、高知の池知さんと三人共大学の講師をしていたことから、木材に関する著書を出そう、そして流通は生き物だから3年も経つと変わってしまうからと言うことで、日本林業調査会の辻さんに大変お世話になり、三人が分担して、著書「木材流通が変わる」が六二年の夏に発刊されました。
中川さんが他界される一週間程前に、秘書の方から佐賀県の木材業者大会で講演を依頼されているが変わりに言って欲しいと頼まれ、9月1日の講演を終え帰名後報告しようと連絡をとったところが、既に亡くなられたとのことで暫くは信じられませんでした。
1か月程前にお合いした時にはあれほど若々しくお元気であったのに。
惜しい人を亡くしました。
木材業界にとっても一大損失です。
合掌