昭和五六年当時のわが国の森林資源の状況は、戦後の拡大造林の推進によって人工林化が進み、その約半数が間伐適令期に達していた。
しかし、林道や作業道などが不充分なうえに、間伐小径木の新しい需要開発が遅れ、また、流通・加工体制も整備されていなかったため、間伐の促進と小径木の需要開発は当時の林政上の緊急課題となっていた。
そこで、林野庁としても本腰を入れてこれに取り組むため、新たに間伐対策室を設置し、間伐促進と小径木需要開発のための予算措置を講ずるなどその対象に腐心していた頃である。
当時、中川さんは「間伐材の需要開発は正に民間が中心となって取り組むべき重要課題である」との持論をもっておられ、持ち前の情熱と行動力を駆使されて全国の有志に働きかけ、その母体となる「全国小径木需要開発協議会」の結成に奔走されていた。
そして翌五八年五月には結成後第一回のシンポジウムが東京麻布のグリーン会館で開催された。
私がその会場に行ったとき、熱気でムンムンする中で丁度中川さんが熱弁をふるっておられた。
「ハウジングフェアなどで木材のファッション性が注目されはじめている。
木材を未来商品として考える人も多い。
木材利用に新しい時代がこようとしている。
」と木材利用の将来展望について滔々と熱弁をふるっておられた姿が今なお彷彿として思い出されるようである。
このシンポのあとで私は中川さんと小径木利用について一時間余にわたり意見交換を行い、遂に肝胆相照らす間柄となった次第である。
其の後東京に来られる度毎に林野庁長官室に顔を出され、「長官、木を知らない人が多すぎる。
教育の基本は学校教育である。
学校のカリキュラムに木を教える科目を設けるよう努力してほしい。
」「建築士やデザイナーに木の教育する方策を考えてほしい」等と新しい提案を次々と出されたり、「来るべき二一世紀は森林化社会になる」とか、木の文化論など広範囲にわたる問題について意見交換を重ね、時のすぎるのも忘れたことが屡々ある程、懐しい想い出が沢山残っている。
中川さんのご一生は手抜きのない全力投球で貫かれており、その努力に報奨を求めるといったものではなく、信頼には応えなければならないといった信念に基づいておられたと思えてならない。
本当に惜しい方が逃れてしまった。
哀惜に堪えない。
謹んでご冥福をお祈り申し上げる次第である。