さらに、他の材木店がどのようなことをしているのか、同じ木材の流通業界のみならず、流通業界全体がどういうふうに変貌しつつあるのかをつかむ、これも重要なことです。
私は、これから無店舗時代がくるのではないか、と思います。晩のおかずからダイヤモンドまで、何でもあるという百貨店を追いかけて、人手をなるべくかからないようにし、包装も少なく、値段も安くして、そのシェアを拡げてきたのが、デスカウントショップのようなスーパーでした。このスーパーと百貨店では十分対応できない部分というか、大衆の要求に応え得ない部分に一寸深く入っていって伸びてきたのが、専門店でした。いまでは専門店も一寸駄目になってきていて、専科店というのか、木材の場合ならば、いままで雑貨店にあったような木製品も、クラフト店にあったような木製品も、もともと材木店にあった木製品も、それらすべての木製品を一緒に集め、木のものであればなんでも売っているという専科店が、出てこようとしています。一般大衆が求め集まってくる店は、そういう専科店になるでしょうから、私の店もそういう専科店を持ちたいと思っています。だが、同時に、流通業界全体を見ると、店を持たずに商売するという、いわゆる無店舗店の方向が出てきています。木材関係だけでなく、すべての小売業界がその方向へ行こうとしています。私の会社でも、クラフト製品を扱うようになってから、その方向へ自信を持ち始めています。そうした流通業界全般の変化をつかむ、これも情報管理の一つです。
それから、他の材木店の変化をつかむ。大阪の場合ですと、かっては大阪の市内にほとんどの木材業者が店を置いていて、それが中心となって木材の市売市場が開かれ、郊外の人は木材を買いたくなったら、市内の東西南北にいる材木屋さんに中継ぎをしてもらうという形態でした。したがって、もともと大阪の小売屋さんは仲買というわけでした。というのは、市内の東西南北に店を張っている材木屋さんというのは、相当の勢力と金を持っていたから、その人たちによって木材需要(流通)がまかなわれていた。しかもその当時は交通網が発達していなかったから、街の中で商売をしていても間に合ったわけです。けれども、一四年前、一九七〇年の万博開催の頃から、交通が詰まってきて町中へトラックが入りにくくなってしまった。需要も外環状線と中央環状線との間に家が建つように変化してきたので、大阪市内よりも周辺の豊中、吹田、茨木、東大阪、堺といった地域に材木店を置くように変わってきたわけです。本店は市内に置いていても支店を地方に出そうではないか、ということになって、奈良の方へも支店を出すというように商売のテリトリーがずっと拡がって行ったわけです。そういうふうに変化してくると、木材問屋も、大阪市内ばかりで「木材市場をやっていてもしょうがない、郊外に市場をこしらえなあかん」ということになってきます。そういう変化を、先に先にととらえてゆくことが必要です。