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杭丸太の仕事
前回お話しした大阪港湾振興倶楽部では、大阪港湾に関係する方々が集まっていました。市役所や警察、民間企業から約60名が参加していました。後でわかったことですが、大阪市の港湾局長を務めた方々も何名かいらっしゃいました。
市の港湾局といえば、当社の創業時からの大得意先です。前社長の時代には、昭和20~30年代に杭丸太の確保のために米国やニュージーランドまで足を運んでいました。また、同業者が多い中、どのようにして港湾局に認めてもらえるか、多くの苦労を重ねたことと思います。港湾局長は、当社にとってまるで神様のような存在だったでしょう。
当時、本社は大阪市大正区にあり、川を利用した貯木場がありました。私は高校・大学時代にはよく会社に行きましたが、臭くて汚くて、将来ここで働くことを考えると憂鬱な気持ちになったものです。川は一面ヘドロで覆われ、貯木場は泥で常にぬかるんでいました。靴もすぐに泥だらけになってしまいます。
幸い(?)なことに、杭の仕事は大阪万博以降、減少しました。最後の大きな仕事は1973年の24メートルの松杭100本でした【https://wood.co.jp/13.../nakagawa/history/197512kinuura.htm】。これも大阪市港湾局からの入札案件でした。入札とは言っても、日本国内ではこれほど長い杭を調達できなかったため、事前に港湾局からの相談(依頼)があり、米国に手配していました。談合と言われればその通りですが、当時の役所にはこのような方法しか取れなかったのです。それは、50年以上前の話です。
UPした写真は、当社の杭丸太が盛んだった時代のもので、昭和20~30年代の白黒フィルムをAIでカラー化したものです。