大阪に万博が決まりました。私・フェイスブック担当者は1970年の大阪万博で働いていましたのでとても嬉しいです。
当社は当時木材業といっても専門は土木仮設材の仕事です。この仕事は木材を建物や土木工事の時に仮に使うもので、工事が終わる(完成)てしまうと、納めた材料は取りはずすか、見えないものになります。
当時の社長が「ゼネコンに多くの木材を納めても、何も残らず、やりがいがない」とつぶやいた事を私は聞きました、そしてその言葉が気になり、絶えず頭の中にこびりついていたのです。
私はお祭り広場の楽屋で勤務しており、広場のイベント企画や手伝いにかり出されたことから、当時は珍しかった、催し、イベント、芸能などの世界を知りました。
木材流通業の仕事をしながら、イベントの誘いがありました。
それは1985年淡路島で6ヶ月間の地方博(愛ランド博 『くにうみの祭典』)です。先の経験からウッドクラフトショップの店として参加したのです。
1990年には国際花と緑の博覧会があり、当時木製エクステリアの仕事を初めていましたので休憩施設を施設提供。 政府苑産業技術館のトラス材の納入や多くの工事、納材をしました。またフジサンケイグループ主催のグリーンミュージアムに参加し、1室のイベント企画とウッドクラフト販売などを行いました。
1994年には和歌山リゾート博に施設提供し、新商品のアメリカンデッキ6000㎡を施工しました。
そして1999年頃から大阪にはユニバーサルバーサルスタジオの話が舞い込み、それまでの木製エクステリアの知識、技術を発揮したのです。
このように当社は現在木材エクステリアのメーカーですが、そのきっかけは大阪万博にあったのです。