当社は歌山県において、徳川寛文年間(1661年)より 代々の中川藤吉が継承経営してきた山林業より、祖父中川計三郎が独立して、伊勢大杉谷御料林、奈良高見山、紀州栃谷山等に於て素材の生産業を営んでいました。 祖父はそれまでの国産林業から、大阪に店を出し、戦後の復興需要に期待しました。
父中川藤一によって大阪店は軌道に乗りました。 父は大阪での仕事を杭丸太の専門会社として、当時の大阪地区の土木、建設ブームに乗って、会社をそれなりにしてきました。 株式会社としての最初の扱い商品は杭丸太でした。 現在でもこの創業来の商材は扱っており、昔に比べると大幅な扱い減ですが、安定した仕事となっております。 樹種は米松、ロシアカラ松、ニュージーランド松などの外材、杉、桧、信州カラ松などの国産材です。
杭丸太専門業者として、順調に推移していたものの、時代の流れで丸太がコンクリートパイルに変わっていく中、当社は杭丸太だけではなく土木仮設用材として、矢板やバタ角などを扱い始めました。その後土木工事の非木材化が進んできたため、 商社の援助を得て、木材業者さまを対象にした住宅用木材の販売部門をつくりました。 この後、関東系のディベロッパーや電鉄系のディベロッパーが、関西の住宅産業に参入し出しました。 当時の時代背景は流通の短略化、小売店の川上化、メーカーの川下化の時代であり、当時流通会社であった当社も将来のため、 戦略をディベロッパーに向け、住宅現場に木材を納材するようになりました。金額的には大きなものとなりましたが、厳しい競争と債権の回収がなかなか出来ないことなど、将来に対する一抹の不安もあり、今後の戦略をたえず考えていました。