当社ではクラフト事業部があり、小さな木製品の企画、卸売りをしております。
フェイスブック担当の私や社員が考えたものを、木工所・作家、あるいは当社で製造し、全国の木製品のお店に卸しています。またウッドクラフト作家と呼ばれている方や国内の木製品製造メーカーなどから仕入れ、卸に流す仕事もしています。この部門は昭和57年にニュービジネスとして始めたものですが、当時のコンセプトとして「木の素材を活かした、新しいデザインの木製品」というものです。
一時期大阪・兵庫のすべての百貨店、東急ハンズ、東京の三越、青森の中三百貨店などへも商品を供給していました。ステーショナリー、キッチン用品、玩具などで、ヒットしたスローステップや玄関ステップはこの部門の仕事です。大阪府での植樹祭、育樹祭には記念品として私がデザインした商品が全採用されました。
あるとき面白い企画依頼が林野庁系の出版社からきました。それは大型の木製動物の遊具です。
当時北海道には親しい協力業者などがいましたが、当社と契約をしている北海道のデザイナーがおり彼の協力のもとこの仕事をこなしました。
どのくらいの金額で受注したか、どのくらいのコストがかかったかは忘れてしまいましたが、お客様の施設から大変喜んでもらい、当社も、製造者も儲かった、大変いい時代でした。
...
樹のある風景 樹のある風景 オリーブ(学名: Olea europaea)です。こんなに大きなオリーブの木は見たことがありません。昨年のシドニー植物園訪問時です。
....
昨日の某新聞に母の投稿が掲載されました。「女の気持ち」というコーナー。下記そのまま入力します。
世界遺産の報に
世界文化遺産に決まった百舌鳥・古市古墳群のニュースを聞いて、今をさかのぼる75年前、1944(昭和19)年の今ごろのことを思い出しています。その頃、日本の軍隊は太平洋戦争の激戦で敗退が続き、サイバン島でも全滅したと聞きながら、本格的な本土空襲までは至っていませんでした。
当時、私は女学校を卒業して堺市の仁徳天皇陵(大山古墳)の近くにあった大阪府立農学校の専修科に入学、豊中市内の自宅から2時間近くかかって通学していました。広大な敷地の中には、5年制の男子農業中学校、獣医畜産専門学校、そして女子専修科の校舎がそれぞれ離れて建っていました。
日に日に戦火がはげしくなる中で、校長先生は激を飛ばし、予科練などに志願する生徒が出てきました。
そして、一人の生徒が出発する日、男子の在校生と私たち専修科生は仁徳陵の前の道に一列に並び、「かしら-、右」と号令がかかると、前を歩く彼の姿を一斉に目で追いながら見送りました。
それからしばらくたって、男子生徒の戦死が報告されました。胸が痛みつつも、誰も口には出しませんでした。その一方で、同じ敷地内にあった校長先生の自宅の本を疎開させるため、専修科の幾人かが整理の手伝いをさせられ、言いようのない矛盾を感じたものでした。
長い年月の中、「ご陵さん」はすべても静かに見てこられたのでは--。
大阪府富田林市 中川輝子 主婦92歳
....
--メッセージは省略インスタグラムをごらんください。--
インパクトドライバーは近くのホームセンターで借りることができたので、簡単に用意することができました。
製作は思ったよりも時間がかからず、説明書もわかりやすく記載されていました。
作業初めは、木が固かったため釘を打つときに穴をあけていなかった為、時間もかかりましたが、後半には、作業にも慣れて、穴を先にあけてから釘を打つとかなり時間短縮することができました。