ところが気持のうえではもう何十年もおつき合いしているような錯覚を持っていた。
先日奥さんから会った回数を聞かれて、初めてそのことに気がついた。
考えてみると不思議だが、その秘密は中川さんの独特な人を引きつけるお人柄にあったように思う。
中川さんと最初にお目に掛ったのはもう十年くらい前である。
京都大学の野村隆哉氏から座談会の誘いがあって、宇治の旅館で一泊したときである。
私は日本の木材界をリードする大人物に遇ったという強い印象を受けた。
中川さんも私に興味を持たれたらしい。
そんな縁から次の年に大阪で研修会が開かれたときお招きを受けた。
それで私たちの間柄は一層深く結ばれ、ご著書もいただいたりした。
その次は六二年の秋に木材工場団地で講演をさせていただいたときである。
私はうかつにも会場を勘違いして四〇分近くも遅刻した。
駆けつけてみると中川さんは私に代って講演されていた。
とっさに講演の代理のつとまる中川さんの博識に、私は舌を巻いた。
やはり大物だったのである。
そのとき六三年六月に木材工場団地の創立記念があるので、私に講演に来るようにとのお話があった。
今にして思えば幸なことであった。
私はたまたまヨーロッパに旅行したので、帰国の翌日団地に参上した。
幸い講演は好評で奥さんともども喜んでいただいた。
その夜中川さんは組合の幹部の方々十数人を集め、PL教団のクラブで慰労会を催して下さった。
本当に楽しい夜であった。
そして中川さんご夫妻の車でホテルまで送っていただいた。
これが最後のお別れになってしまった。
私は車の中で「中川さんは国宝級の人だから、大事にしてあげて下さい」と、奥さんに繰り返し申し上げたことを強く記憶している。
虫が知らせたのかも知れない。
中川さんはその年の十月に第一回の全国グランドフェアを木材工場団地で開催されることを計画されていた。
その直前に逝去されたのである。
壮烈な戦死という言葉が当てはまる思いであった。
幸い行事は成功裡に終った。
中川さんの執念が実を結んだのだと心から敬意を表するところである。
私はそのときコンクールの審査委員長をさせていただいたが、それは中川さんの敷いた路線に沿うものであった。
いささかなりともお手伝いできて感謝に耐えない。
中川さんの苦心の結晶である工場団地の事務所の前にアカンザスの立派な株が繁っている。
その着眼の鋭さに驚いたら、「私の家の庭から移したのだ」とさり気なく言われた。
さすが文化人だと改めて敬服した。
アカンザスの葉が数千年にわたって装飾文化の源流になっているように、中川さんは今後長く日本木材界の大指導者としてその名を残される違いないと思う。